僕と中央線との関わり 志茂田景樹

3歳のとき小金井市へ

1943年(昭和18)、3歳のときに小金井市にある旧国鉄官舎に引っ越してきました。武蔵境駅を過ぎて東小金井駅に着く少し前に右手に大きな変電所が見えてきます。その北側に隣接する官舎です。

東小金井駅ができたのはずっと後の1964年(昭和39)のことで、僕が大学留年中のことです。

当時は武蔵小金井駅より武蔵境駅のほうが近くて最寄り駅でした。

太平洋戦争が日本不利に傾いた頃で、翌年の11月にはB29が中島飛行機武蔵製作所を爆撃し東京都下への空襲が始まりました。庭に防空壕が掘られて空襲警報が鳴ると家族で急いで防空壕に逃げこみました。

そのうち、変電所は爆撃されないといううわさが流れ、防空壕に逃げこまず、庭に出て空中戦を見あげていました。夜間の空中戦は曳光弾えいこうだんが赤い点線のようできれいでした。爆撃されない理由は、変電所を破壊すると広範囲の鉄道がマヒし、占領してから困るというものでした。

気球

長閑だった沿線風景

小学校を卒業した年の1952年(昭和27)春、父が国鉄を退職し武蔵境に新居を作り、同年の4月、僕は武蔵野市立第二中学校に入学しました。まだ武蔵境界隈は幾筋も用水が流れてアヒルが泳ぎ、お母さん方が洗濯をしていました。

都下全体が長閑でしたね。1955年(昭和30)4月、都立国立高等学校に入学しました。当時、日の出村から通っていた同級生はツキノワグマの毛皮のチャンチャンコを着ていました。奥多摩の山々にはまだ熊がいっぱい棲息していたんですね。

一浪して中央大学法学部に入学しました。
当時はお茶ノ水の校舎です。通学の途中、電車が新宿に近づいて車内アナウンスがそのことを告げると僕は浮足立ち、停車してドアが開くと魔物に押されたようにホームへ降りていました。

まだ映画全盛時代で3本立ての映画館もありましたよ。映画館を2館もハシゴすると暗くなっていました。通称ションベン横丁、今は思い出横丁ですか。そこの焼き鳥屋で一杯やると気が大きくなって、阿佐ケ谷や吉祥寺で降りて飲み直しをしました。
そんな日々が多くなったのも2年も留年した一因でしょう。
終電で帰れば三鷹で降りて歩くことになります。線路に沿った道を歩いて、小林旭のズンドコ節を歌って歩いていると二階家の二階の窓が開いて
「受験勉強をしてるんだ。静かにしろ!」
と、顔を出した浪人猛者風に怒鳴られました。住宅街でしたよ。

今も武蔵境に住んでいますが、昭和、平成、と中央線は時代と共に様変わりし、令和も新しい顔を見せるでしょうが、中央線の魅力は時代を映して更に魅力を増していくと信じています。

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